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昭和52年3月25日 朝の御理解
松本智子
御理解第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
これは、金光大神様が来てくれと言う所に来て下さるということは、時間空間というものはないもの。そうしてみると、アッという間に、金光大神の働きというものは始まるわけで。だから、これを言い換えると、「絶えず、金光大神様が、私の心の中に宿っておって下さる。」というほどしのものを頂かなければならんということですね。「金光様、来てくれ、来てください。」というものではなくて、金光大神様が、いつも私の心の中に宿って下さる。そこに、「金光様」と、もう、そく、金光大神のお取次ぎの働きが、始まっておるのだと。なら、厳密に、「こう、あらなければならない」と言うのならば、そうだと私は思う。
おとつい、今朝がたお夢を頂いた。そのお夢が、一台の自転車が、「これはどこの自転車じゃろうか。」と言ったら、「○○さんの所の自転車だ」と、こう誰かが言って、「こげなところに置いとんなら、取られちゃあならんけんでん。」と私が、しょろ縄の、強そうな、しょろ縄で、自転車と、そこに家の前に、こう植え込みがある、植え込みの木に、こうくわえつけ、あのくくり付けておるところを頂いた。自転車ということは、これは、信心させて頂いておっても、非常に人情の強い、いうなら、人間心ばかりでを信心しておるという人もありますね。非常に人間心の強い人。信心は、だんだんその人間心が取れて、いうならば変わって神心になり、いうなら神ながらな生き方。神ながらな、ものの見方、考え方が出来るように、だんだんなってこなければならない。信心が、深くなり、神様を信ずる力が、出来れば出来るほど、「人間心は、バカらしゅうて使えない。」ということになるのです。自転車と言うのは、その、人間心の強い、自分で踏む車ですからね。自分の力で踏むというのですから。また、その方のところの、うん、自転車だとこういう。今、その方は、大変な難儀なところにあって、どうでもおかげを受けなければならない状態にあるわけなんです。だから、例えば、そういうところに自転車が置いてあるということは、誰が持っていくやら、誰が取るやら分からない。そこで私が、それをくわえ付け、あのしょろ縄で、その持っていかんように、取られんように、木にこう、くわえ付けて。やっぱり、「おかげを頂きたい」というて参って見えられ、参ってくるのですから、ね。そこで私は思うのに、この取られるということです、ね。
昨日の北野で(?さいぞうさん)という方が、近所ズラッと四人泥棒が入った。そして自分がただけが入らじゃった。懐中電気持って来て、こうやって、その枕元を明かりを照らしよる時に、「誰かぁー」ちいうて、いつもは自分は、そこには、寝らんとに、そこに寝ておって、そのだから、もう、居合わせ、逃げていった。あくる日、聞いてみるところ四件、ズラッと、どこも大小、色々なもんを取られておった、とこう言うのです。だから、取られる寸前に、気が付くということ。ね。取られる前に、気が付くということ、いや、取られたに致しましてもです、ね、これは、もう、取り返しのつかない、出来ない場合がある。命を取られたらどうなりますかね。もう、これなんか、もう取り返しがつかない。昔の御信者さん方が、よく言われましたが、「分かるところが分かりゃあ、おかげ頂く」ということを、よく私共、聞きましたですね。分かるところが分かればおかげ頂くと。ものを取られる。金を取られる。命を取られる。病気で、例えば、今、重体だというのならば、もう命が取られかかっとるとよ。ですからね、その取られかかっておることに気付かせて頂いて、「はぁー、こげなことじゃあ、おかげの頂けるはじゃがない。」と分からせて頂いた時。私は取次ぎの働きというものはね、そういう例えば、人間心の強い人であっても、「助けてくれ」というて、助けを求めて見えるのですから、ね、それは私の御用として捉えてはならなんと、いわば、自転車を木にくくり付けて置く。取次ぎの働きということは、それだけのことだと思うとです、ね。だから、自転車を無くしてというて、あの探して、まあ、あのおるわけでしょうけれどのです、ね、「ああ、ほんにゃあ、あそこに、ほおらかしにしとったたい」と気付いた時に、そこに私たちが、ちゃんと「はぁー、取られんで良かった。この木にくくり付けて頂いとった。おかげ頂いた」と、気が付いて、おかげを頂く、ね。それが例えば、うんなら、ものとか、お金とかじゃなくて、命といったような場合なんかがそうです、ね。命を取られる寸前に、気付くところに、気付かせてもろうて、「はぁー、自分の考え方が間違っておった。合楽では、最近は、もう合楽理念、合楽理念ということが言われるが、ね。本当に合楽理念の、いうなら、根本というのは、すべてのことを有難く受けていこうということ。また、有難く受けなければ勿体ないということ。身分が分かれば分かるほどに、『氏子かわいい』という、神様の御一念が、こういう問題になっておるのだ、こいうことになっておるのだ。『丸うしてやらずにはおかん』という働きがあっておるんだ」と気付かせて頂いてね、それを丸い心で受ける気にならなきゃあならないのに、「自分だけが、どうしてこんなに不幸なことになっておるのだろうか。」というような、「愚痴やら、不足やらばかり言っておったんでは、おかげの頂けるはずがない」と気が付いた。気が付いた時、「はぁー、ほんなら自転車は、あそこに、ほおからしにしとった。誰か持って、帰っとらんじゃろうか」といっていたところが、ちゃんと、そこにくわえつけ、自転車が、その取られんように、木にくくり付けてあった。「はぁー、おかげ良かった。」と持って帰った時にです、はじめて、いうならば取り返しがついたことになるのです。ね。
「金光大神様」と、例えば、唱えたところに、そく、金光大神様が現れて下さる、ということは、どういうことかというと、一部、頂いておる、金光大神様の教えを、本当に自分の心の中に、頂き返した時、いうならば、自分が、「はぁー、これじゃあ、おかげが頂けんはずだ」と気付いた時、そこに、はじめて金光大神の働きが始まるので。ただ、「金光様」と言うただけで、そこに働くのではない。ね。そこに、例えば、人間心を、だんだん無くしていってね、人間心の中には、神様は住み付きなさらんです。不思議に。ね。だから、神ながらな心の状態である時に、「生神金光大神様」と、私の心の中に宿って下さってある。ね。
昨日の熊谷さんのところで、昨日、大変、体きつかったんですけれども、お話しだしたら、なんか気持ちが楽に、気分が良くなってから、もう、本当に、もう限りなしに、お話させて頂きたいような、感じがするんですよね。まぁ、昔のことから色々話させて頂いた。二十数年前、本当にあのう、北野の方たちが、特に中村さんたちが中心で、それこそ、日参り、お参り、歩いてからでしたがね。誰がなんというても帰って来る。帰ってから、また話しおうてから、「もう、今夜もういっちょお参りしようか。」と、言うてから、また参ってくる。もう、その晩泊まってから、あくる朝の御祈念を頂いてから帰る。もうそれこそ、(?「おおき、おおばし、焼け跡、ままよ、椛目通いは船でする」ちゅうごたある勢いで、お参りして来ておられた。
先日から、天神様の千何十年祭かの記念祭があって、大きなお祭りが北野にあった。もう二日間ですかね、もう、町を上げてドンチャン騒ぎ。お客さんなんかも、沢山は、どこそらから見えたわけでしょう。ほんに昔の、えー天神、あのう天満宮様のお祭りというたら、合楽には、お饅頭舟が付きよったです。えー。もう今度ん、例えば、お祭りなんかには、もう、あそこには、サバとか、あげなん何とか、えーなんちゅうかね、何とか寿司ちあるね。かま寿司。もう沢山きよったです。しかも、「親先生が、好きなさるげなから、(?あげよんなさるから)」というて、もう饅頭でんなんでん、みんな、つぶ、「親先生が、つば団子が良かち、好いとんなさるけんでん」ちいうて、わざわざ、つば団子にして、お饅頭をお供えしよったもんでした。期待しとるわけじゃなかばってん、今度、誰れん、お饅頭、いっちょん持ってこじゃった。かま寿司一切れ、持ってこんじゃった。みんな、顔見合わせてから、「ほんなこつ」ちいう顔しとる。ね。以前はね、そういう例えば、ひとつの情感で、私と椛目が?がっておった。これは私と北野の方たちが?がっておった。ね。だからそれがね、いうならば、出来んごとなったから、椛目、私と皆さんとの間が冷たいものになったかというと、決してそうではない。ある意味合いにおいては、信心が進んできたから。その時分な、ただね、もので?がるというか、「ただ、親先生の喜びだけを受ければおかげ頂く」という、ひとつの時代であったから、ね。けれども、信心というものは、ね、私が饅頭ほしいけん言うじゃなかけれども、「さぁ、お祭りで饅頭が出来た、お寿司が出来た」ちいうならね、とにかく一切れでも、いうなら持ってくると、いうようなね、そういうものと、信心が一緒に育たなきゃぁいけない。今、合楽と、皆さんと?がるというのならば、もう本当に合楽理念を一生懸命、勉強させてもろうて、そして、そのことに焦点を置いて、日日の生活が出来る。そこには、合楽と交流する。
そして昨日の話を、昨日、その話をね、今度、十年の記念祭には、どうでも、今度は御造、えー、奥城の造営に、「もう、いくら金かけたっちゃよか」というごたある気持ちで、ひとつ、あ、あ、あたりたい。もういうならば、うん、「合楽は、世界の桃源郷」と言われるくらいだから、もう本当に桃源郷に相応しい、あー、「これが桃源郷の現実が、とは、こういうところであろうか。」というような、素晴らしい、いわば奥城を造りたい。もう、それには、もうありとあらゆる、やはり工夫をさせてもろうて、もうお互いの死生観が変わるぐらいに、「こげな素晴らしい所に祀ってもらえるんなら、いつ死だちゃよか。」ちいうぐらいな、私は、死生観ができるくらいな、素晴らしい奥城を、にしたい。ね。それには皆さんがです、それこそ、もう「財産の半分をお供えしたっちょよかばい。」ち、私。ね、しとかんと肩身がせぼい。なら、あんたどんが、もう、死んでしもうて合楽に来んならばよかけれども、合楽と死んでからでも、縁を頂いておこうと思うのならば、それこそ、自分のおり場ぐらいは、自分で作っとくぐらいの気持ちがなからでけん。いっちょはずみなさい。そんためには、合楽理念の、いうなら、いよいよマスターをさせてもろうて、ね、合楽理念に基づいた生き方をするならばね、いわば、思いもかけず、思わず御用でもできれるごたある、おかげが受けられると、私、昨日、申しました。自分たちが、いうならば、魂の世界に入って、ね、魂の世界、こういう合楽の世界にね、自分たちも、ね、横の方から、お世話になるごたあることじゃいけんじゃんの、ね。そこに、本当に自分の真心、真というものを打ち込んで、おかげを頂かな、おかげを頂くためには、ただ、なだ、自分の財産をすり減らしたといったようなことではでけんから、おかげを頂くためにも、合楽理念。
どげなふうですか、この頃、合楽理念の、あのうおかげの泉が出たが。何人が、皆さん、あれを読みなさったかち言うたら、二、三人しか手を上げじゃったち。もうバカらしか、もうほんに、ただでやってから、やらなよかったち、いうごたある感じ。誰れん、読んどらん。何人かの者が読んでおるだけ。みなさんどうでしょうか。合楽理念、合楽理念と、しかも、四十五分間みっちり、合楽理念の、まぁ、理念、概念ではあるけれども、お話をしておるのが、今度、おかげの、の、特別号で出ておる。もちろん、みなさんが朝晩、こういやってききよんなさるから、聞かんでん知っとるという人もありましょう。また、実際に行の上に現しとる人もありましょう。ね。けれども、人に説明、一つでんさせてもらうなら、やっぱり、ひとつのお話を聞いて、自分のものにしとおかなければ、でけない。「分かるところが、分かればおかげになる。」とこう。分かるところが分かれば、例えば、もう荷物を取り上げられるというのと、寿命が来てなくなるというのは、違うんです。四神様のお言葉の中にもありますように、「神が与えて寿命を生きいるものが少ない。」とこう。神様に頂いた寿命を全うするというのと、途中で神様から取り上げられるというのは、違うんです。これによるだけのこっちゃないですけれども、命というものは、もう、かけがえのないものですからね。それこそ、分かるところを分からせて頂くとです、「はぁー、こげなこっちゃおかげ頂かんはずだった。」と、分からせてもろうた時に、もう、その命が帰ってくるんです、ね。
「金光大神は形がのうなったら、来てくれというところに行ってやる」、ね。願わくば、私共が人間心を捨てきって、本当に金光大神を自分の心に宿ってもらうぐらいな、おかげを頂きたい。それは、いうなら心行。ね。本気で心行をさせて頂いて、金光大神、もう、いつでも即、金光大神が立ち現れて下さるようなおかげを頂きたい、ね。でなかったら、「金光大神様」と唱えたところに、金光大神が来てくださっての働きができれるような、おかげを頂くために、饅頭やかま寿司だけで、?がっておるといったようなところから、合楽理念に基づいて、いうな、ら合楽の信心が、本当に身になって、血になり、肉になって、ね、それとこれとがひとつになった時に、ね、金光大神がそく立ち現れて下さる働きになってくるのです。これはですね、私、昨日、(? )でも話したところですけれどもね、例えば、あの、「もう、私と合楽は、お饅頭だけで?がっとるとじゃないです。信心で?がっとると。」というなら、なおさらなこと、「さぁ、お饅頭いっちょできたっちゃ、親先生に。」という心が、信心だよと、私は申しました、ね。信心が進めば進むほど、例えば、甘木の信者さんなんかあたりは、もう、豆腐一丁作っても、「はい、親先生に」と言うておったと、言われるです。だからね、合楽理念をいよいよマスターさしてもろうて、合楽理念の、なら、行者にならせてもらう、おかげを頂いて、合楽と交流しておる、いつも。交流しておれば、おるほどにです、先日から、私は、親教会の御霊様の、お祭りのことを聞いて頂いたように、ね、親先生があって私がある。合楽があって皆さんがある。三井教会があって私がある。ということを、本当に分からせて頂いたらです、ね、いうならば春、秋の御霊様の御大祭に、合楽、北野、そして星野という、三軒の出社があっておるけれども、あるけれども、今度に限っては、どこからも見えてはいなかったということ、ね。もう、それは、他の所で交流しとるから、といやあ、それまでのこと。もちろん私共、あの御霊様祭りには、それこそ甘な辛もの、一切を取り揃えて、お供え持っていきます。「もう、そげなことせんでん、ちゃんと、お金でしてあるけんでん」といったようなもんじゃぁない、ね。私と、なら善導寺の間の場合なんかでもね、五年間という空白の出来ておった時代があったけれども、その五年間の、向こうは、空白と思っておられたかもしれんけれども、こちらは、毎日毎日、お日、届けがちゃんとしてあった。そこにです、私は、なら、あの北野とか、星野を対象にするわけではないけれども、おかげを頂く教会、おかげを頂かん教会、おかげを頂く人、頂かない人のね、違いがそのへんに、もう、ほんなわずかなことですけれどもです、そこのところを辛抱しぬけば、できるところを辛抱しぬけなかったり、それを「もう、こんくらいのことは、もうかえって他人行儀に、仰々しくせんでん」といったような楽な方へと、自分の心を割り切ったような生き方でいたんでは、不思議に信心はおかげにならんです、ね。いうならば、合楽理念によって、北野と私共がつながって、その上、かま寿司であり、お饅頭であるというようなあり方になった時に、本当のおかげが頂けるもんだということです、ね。やっぱ饅頭食べとかな分からん。かま寿司とか食べてなきゃ、「はぁー、これ美味しかった」ちいうことが分からん。けれどもね、信心とはそれだと言うのですよ、ね。まぁこれは枝葉のようなことですけれども、ね、そういう生き方の中に、なら、親先生が、いつ、「はぁっ、豆腐一丁でも、親先生に」と、もう、親先生といつも交流しているわけなんです。
まあ、今日の御理解を頂いて、まぁ、色々と気付くところがあったね。はぁー、本当に気付くところがあったら、「なるほど自分どんが、おかげ頂けんはず。」というところに、もし気付いたら、もうそこから取り返しのできれるおかが受けられるということを、今日は聞いて頂きましたよね。どうぞ